君がとても綺麗に見えた
073:怖いくらいの白さに囲まれて、あなたは笑っていた
人にはそれぞれ色があるとは誰の言葉か。ざわざわとした整備の場所にいると唐突に昔聞きかじったようなことが頭をかすめた。戦闘機の機械油の匂い。情報を読み取り、または転送させる端末の微音。蛇のようにうねる接続ケーブルはとりどりに戦闘機に巻きついて彩った。情報の読み込みで動かせない卜部の機体を卜部が見上げる。一度は虜囚の身に堕ちた上官奪還の際に与えられた新たな刃だ。今までの戦闘機とは桁違いに性能が良い分脆くもある。定期的な整備や大掛かりなものにもなれば一日使う。そして乗り手の技量いかんでその戦闘機の良し悪しが決まってしまう。要するに万人が扱える大量生産機ではないのだ。そしてそれと同じ型でありながら独特の片腕とカラーリングの機体の下にはまだいとけき少年が指揮を執っている。
「白い、かァ」
白銀の髪は手が入っているとは思えない程度にぼさぼさで毛先へ行くほど蜜色に透けている。白皙の美貌で蒼い双眸はくっきりとした眦で長く密な黒い睫毛に彩られている。彼の感情の在りようによって瞳孔が透けるかと思うほどの薄氷色に薄まるかと思えば曇天のような群青にも濁る。この非合法団体のエース級である紅月とゼロの肝いりだ。紅月は確か近親者がこの団体の先進であるグループに所属していた関係でこの団体にいるらしい。当人は立派な心意気で戦っているが卜部から見ると身内の仇打ちに見えて仕方ない。くわしくは知らないが多少の噂は知っている。母親は麻薬使用で懲役。兄が行方不明。この兄が非合法団体の前身であったグループの中心人物であったらしい。そう考えるとこの紅月には家族の色が色濃く纏われている。ゼロにいたってはどどめ色状態である。何色でもあり何色でもない。執着しているものがあるのは判る。だがそれがなんなのか、と問われると卜部はいつも言葉に窮する。それでも卜部はゼロはひどく個人的に戦っていると思う。
「ライ」
少年が名を呼ばれて振り向く。記憶がないという生い立ちらしき前歴を聞かされてもその影は見受けられない。仲間内でももめ事も起こさない。彼が年少であることが相手に油断を呼び、さらに卓抜した戦闘技術に戦慄する。楽しげに談笑する様子からは彼の背負っている苦しみは判らない。冗談も言うし皮肉も返す。記憶という原色を失くしたライは何色なのだろう、と卜部は思う。それでもただ漂白したように真っ白な美貌とその笑顔は他者を魅了してやまない。卜部も呼ばれて戦闘機の傍へ行く。人種の規格外の長身をかがめて細かい配電盤を眺める。説明を受けながら実際状態とを擦り合わせていく。実際に動かす場合もあるから密閉性のあるパイロットスーツを着用している。整備係の指示に従って操縦席へ長身を滑り込ませた。
その人は背が高い。日本人だというが同じ日本人でも長身と藤堂中佐を超す背の高さだ。何を食べたらあれだけ背が伸びるのか知りたいくらいだ、とライは皮肉げにいつも思う。自身も現在着用中のこのパイロットスーツだが密着型のためにボディラインがかなりはっきり判る。卜部の尖った腰骨やくれた腹部を見てはライは夜中にふいに思い出すそれでトイレへ駆け込む。ちょっと間が抜けたような印象や飄々とした仕草の多い人だがあれでいて隙はない。『厳島の奇跡』を起こした藤堂直属でありその戦闘にも参加した猛者らしく、卜部の戦闘力は高い。ライが見届けた藤堂奪還劇での卜部を含めた四聖剣の動きは見事なものだった。
「変わった人」
最近積み上げられて来たライの記憶と照らし合わせても卜部のようなタイプは珍しい。ライには記憶がないとゼロから説明があった時も驚くでも同情するでもなくただ、はァン、と鼻を鳴らしただけだった。卜部がどう思ったのかライには判らない。別に同情を買いたいわけではありません、と明言するとあからさまに馬鹿にしたような顔をしたから油断ならない。
だがそれは同時にライの中へ響いた。記憶がないライを、受け入れてくれた初めての人だった。たいていの人はライという人物から記憶の引き算をしてライをとらえる。だが卜部は初めからライには記憶がないと了承していた。それは仕草の端々にうかがえる。あれ、これ知ってる? とはよく言われる常套句だが卜部はそれを使わない。知らぬものとして初めから滔々と説明する。知ってます、というと怒るでもなく、あァそう、じゃあ次はな、と話が移る。あとから不愉快だったかと詫びを入れに行ったら当人が忘れていた。初めてだった。
「ライ」
「はい?」
呼ばれてライが振り向く。整備員がここを見たいから動かしてくれという。ライは笑ってそれに応じた。どこか空疎で明るくて抜けがらみたいな、笑みで。
「お」
「あ」
控室も兼ねた更衣室で卜部とライが鉢合わせした。卜部はパイロットスーツの留め具を臍まで引き下ろして上半身をあらわにしている。胸と背中を覆う白いサポーターが汗で煌めく。シャワー完備とはいかないから大抵のものは濡れタオルなり拭くものを用意している。
「お邪魔かな」
「気にしねェでいい。どうせ同じ野郎だしな」
ライは己の着替えを詰めたロッカーの前に立った。そこで初めて自覚した。ライの体は卜部に向かって好意的な触手を伸ばしつつある。情報を流しこもうとする。触れたいと思う。
「卜部、さん」
卜部の手が止まる。目線で続きを促している。だが同時にライの自意識がブレーキをかける。こんな好意を伝えて何になる。ましてや戻るかもしれない記憶を考え含めるとライはこの団体の敵になる可能性さえ捨てきれないのだ。しかも同性である。好意はあっても慕情は難しかろう。言い淀むライに卜部は着替えを再開する。タオルで体を拭い、サポーターを脱ぎ捨てる。綺麗に湾曲した卜部の脊椎や肩甲骨の歪みは美しい。上半身を見てしまえば今度は下肢が見たくなる。膝蓋骨や脛骨、踝は螺子のような突起だろうか。
「卜部さんから見て、僕ってどうです、か?」
「…――どうってなァどういう意味だよ」
卜部はすぐさまライの真意をついてくる。安直に答えない。それでいて熟考の果てかというとそうでもない。卜部のそんな杜撰さは張り詰めた周囲に放り出されているライにとって救いでもあった。
「記憶がない、ってこと。僕はもしかしたら、ブリタニア人かもしれないんですよ?」
ゼロや藤堂中佐の敵かも。言い募ってから冗談交じりににっこりと笑う。
そしていつか寝返るかもしれませんよ?
「あの新しい戦闘機を持ち去って――」
そうだ。ライは自分がどこの所属であったかさえ判らなかった。もし判ったら、それを交渉カードとして離脱するか寝返るか、はたまた何をするか――ライの倫理レベルは案外低い。好い暮らしが出来るならそちらへ傾く場合もあろう。それまでの恩情や愛情や友情や付き合いといったすべてを捨ててでも。
「しねぇよ」
きっぱりとした卜部の声がライのそれを断ちきった。
「お前は、そういうことたァしねェ奴だよ。見りゃわかる。あんまり俺を舐めるなよ」
茶褐色の小さな目がきょろりと動いて揶揄するようにライを見下ろす。
「でも」
「しねえよ。そう言う小物は見りゃあ判んだよ。お前さんは少なくとも違うな。まァだから別に寝返るなたァ言えねえがな。寝返ってもいいぜ。そんときは俺の眼鏡違いだったってだけの話だからな」
もっとも、お前さんを寝返らせるにはいくら積んでも無理だろうがな。卜部が白いタオルを絡めた腕を伸ばしてびしっとライの額を指ではじいた。そこだけ紅くはらしたライがぷっと頬を膨らませる。仕草だけ見れば子供らしくじゃれているようでもある。
「お前さんは白いよな」
「しろ?」
卜部は笑いながら嘯いた。尖った喉仏の上下する様子や笑いに痙攣する腹部、肋骨の軋みや卜部の体の躍動が見て取れた。軍属経験者として体が鍛えられているのは判る。戦闘機を繰るのに必要な部分に筋肉がついている。
「あァそうだよ白だ。記憶ってェ余分な荷物もなく自分の状況も判らねぇけど狼色なんだよ、周りを喰っちまう。自分一人が辛い思いしているって思ってるかもしれねぇがァ周りもさりげなく巻きこんでる」
ぐさりときた。ライがぐっと言葉と涙を堪える。ライと接する人は皆ライに基準を合わせてくれる。記憶がないなら仕方がないと、言って。ライの顔がひくりと引き攣った。素直に泣くことも憤ることもできずにただ笑った。どうしたら良いか判らない表情はだた筋肉の痙攣で笑みを浮かべていた。
「あ、は、はは…白、ですか? そんな綺麗かな。だって僕は何にも」
「あァそうだよお前さんはお前さんを含めて回り全部真っ白だ。踏み込んで色つける度胸のある奴ァいなかったみてェだな」
卜部がははんと笑って指先をひらひらさせる。もちろん、俺も含まれてンだろうけどよ。
「好きです」
唐突にライの口から突いて出た言葉だった。喉の奥からはきだされたそれにライと卜部の双方が呆気に取られて沈黙した。ライの頬がみるみる紅潮して唇が熟れたように紅くなる。
「ご、ごめんなさ――…忘れ、て」
忘れて、といった刹那に涙が溢れた。醜態だ。洟まで垂れてくる。ぐしぐしと顔を拭うライに卜部が使用していないタオルを投げた。それで拭けということらしい。こんな優しさが。ライは嬉しくてうれしくて、だからきっと好きになる。
「無理すんな」
「無理、じゃな…! 本当に僕は、あなたが。好きです。抱きたいとさえ思う」
「だからな、それは判ったから。俺もお前さんが好きだよ。真っ白で綺麗なお前さんがさ。記憶くらいなくしたって生きていってるお前さん見るたびに人間てのも捨てたもんじゃねぇって思えたからさ。だから俺はお前さんが好きだよ」
ライの目が瞬く。薄氷色に薄まっていた目が蒼く燐光を発するように煌めいた。瞬くたびに星が散る。溢れる涙は透明な滴となり熱く頬を伝った。戦慄く唇も涙に濡れて紅い頬も洟水垂らす鼻梁も何もかもが。
「こんな僕でも、好きになって、くれますか」
「当たり前だろ。俺は俺が好きになる奴や抱く奴は自分で決めるくらいの自負はあるぜ」
ライは声をあげて泣いた。卜部が投げたタオルに顔を伏せて慟哭した。卜部の匂いがぷんとする。それがひどくライの体を煽る。温かくて心地よかった。
「真っ白な中でたった一人のお前さんは綺麗だけど寂しそうだったぜ」
《了》